ユーミン デビュー50周年、引退?

1970~80年代

J-POPを語るにはまずはこのお方から。
そう。ユーミンです。

昭和、平成、令和とポップスの女王として駆け抜けていますね。
1月19日はユーミンお誕生日でした。68歳になられたそうです。
おめでとうございます。

デビュー50周年!!

そして今年2022年は、ユーミンデビュー50周年。節目の年です。
50年間、自ら作詞、作曲をして歌い、コンサートで全国をまわり、パフォーマンスや衣装にも独自路線で突き進んだユーミン。

もちろんだんな様である松任谷正隆さんの存在も大きいかったでしょうが、ここまで成功をおさめるには、きっと人知れず涙流したことも多かったんだろうな・・と予想しています。

デビュー50周年を記念して、ユーミンの山あり谷ありの50年をちょっと書いてみます。

東京・八王子生まれ

ユーミンは、1954年(昭和29年)東京・八王子の荒井呉服屋の娘(五人兄弟の二女)として生まれました。荒井呉服店は今でも八王子に存在しています。

荒井呉服店
https://www.araigohukuten.co.jp/index.html

デビュー曲

デビューは1972年、本名の荒井由実で18歳でデビューです。でも作曲は中学の頃から行っていたとか。

デビュー曲は「返事はいらない」ただしこの曲は全く売れず(300枚程度しか売れず)に終了。

多摩美術大学

立教女学院高校を卒業したユーミンは、多摩美術大学へ進学し日本画を専攻しています。得意な美術を学びながら音楽活動を続け、大学在学中にアルバム「ひこうき雲」を出します。

当時は無名のユーミンですが、ひこうき雲は、若者の感性をくすぐり、ラジオで流れるとじわりじわりヒットしていき、ユーミンの名前は全国的に知られるようになりました。

1970年代は、学生集会も盛んで4畳半フォークが流行。

音楽といえば苦学生がギターで仲間とフォークを歌う、という時代の中、ユーミンは当時から人生の無情さ、はかない命、失恋ソングをピアノ弾き語りで歌い、優しい音色と美しい日本語の歌詞は、人々の心をつかんでいきました。

戦後の復興から豊かな時代を歩む日本。ユーミンもまた景気の流れに乗り、その後のアルバムも次々と大ヒットとなりました。

結婚

1976年、ユーミンは大学卒業と同時に松任谷正隆さんと結婚します。松任谷正隆さんとは音楽活動を通して知り合い結婚。荒井由実から松任谷由実に名前が変わりました。

結婚後、ユーミンは音楽活動を休止します。専業主婦として生きることを考えていたようですが、才能あるユーミンですからその器ではなかったのでしょう。

松任谷由実として活動

結婚から2年たち松任谷由実としてアルバムを出します。当時のユーミンは年に2枚のアルバム制作をしていました。

名曲「14番目の月」「埠頭を渡る風」はこのあたりに作られたのです。

苗場コンサート

1980年代になるとスキーリゾートの曲を書くようになり、毎年2月に新潟県の苗場プリンスホテルでコンサートを行うようになります。

SURF AND SNOWが流行し「サーフ天国、スキー天国」という曲は、ゲレンデカップルとスキー場の自然背景をユニークに表現。テンポよいリズムで日本全国どこのスキー場でも必ずかかる曲となりました。

守ってあげたい

その後、映画の主題歌になった「守ってあげたい」が大ヒット。テレビにも出演するようになりました。

豪華コンサート

1980年代後半になると、日本経済はバブル期を迎えます。ユーミンも出すアルバムすべてが売れに売れ、高額納税者に名前が掲載されるようになり、コンサートも派手な舞台装置と衣装がメディアに掲載されるようになりました。

当然ながらコンサートチケットも争奪戦で、札束舞い散る豪華コンサートといっても過言ではない時代でした。

当時のユーミンは30代です。子どもはいらない、という名ぜりふ。DINKS(ダブルインカムノーキッズ)という夫婦の在り方の最先端を行き、多くの女性を魅了していきました。

1990年代になるとバブル景気にも陰りがみえはじめますが、ユーミン人気は続きました。アルバム「天国のドア」も売れました。

SAVE OUR SHIP

一方で恋愛ソングから一転、スピリチュアル世界を歌うようになります。時代の流れを察知してのことでしょうか。ユーミン自身がもつ精神世界と少数民族音楽を掛け合わせたような曲が増えました。

子育て中の女性を意識してと思われますが、守るべき子どもについて歌う曲も見られました。ドラマの主題歌も歌うようになり「真夏の夜の夢」「Hello my friend」「春よ こい」が大ヒット。

ユーミンはPOPSの女王として日本社会に確実に認知されていきました。バブル崩壊がユーミンの音楽性にも何か変化を与えたように思います。

シャングリアコンサート

日本経済は低迷し失業者も増えましたが、それでもロシア人サーカス団を呼んで派手な演出のコンサート「シャングリア」を開催。度肝を抜くサーカスの演出とユーミンの選曲は、多くの人を魅了しました。

チャリティ

2000年になるとチャリティやアジアを意識した曲が増えました。
2005年名古屋市で開催された「愛・地球博覧会」では、シンガポール、韓国、中国のアーティストと共演、NHK紅白歌合戦にもこのメンバーで中国・上海から生出演しました。

2009年東日本大震災では、NHKのチャリティ企画に参加。「春よ こい」がチャリティソングとして扱われ、その収益を全額寄付しました。

24時間テレビにも出演しています。どんなきっかけだったのかはわかりませんが、社会活動にも勢力的に参加をするようになりました。

ユーミンも50代となり、自分の体力、老後、子どもがいない分、後世のためを考えた行為だったのかも知れません。

平成最後の紅白歌合戦

平成最後の紅白歌合戦にサプライズで生出演。NHKホールから「やさしさに包まれたなら」を歌い、出演していたAIKOさんが涙を流していました。

最後には、サザンオールスターズが歌う「勝手にシンドバット」に飛び入り参加。桑田佳祐さんに祝福のキスをして一緒に歌ってダンスしたことは記憶に新しいと思います。

2021年は新型コロナウイルス感染症で、2月恒例の苗場プリンスのコンサートが4月開催となり、予定していたコンサートツアーも延期になるなどありましたが、今もまだ歌い続けるユーミンには元気をもらっています。

そして引退?

引退については、出演されたテレビ番組で「考えたことはない」と否定されています。

でも、50周年の節目に最後に自身の40作目となるアルバムを出し、最高のパフォーマンスでコンサートをして、それでひっそりと消えていくような気がしています。

散りてなお

散り際もおしゃれに美しく「散りてなお」そんなプライドと独自の強い思いがユーミンにはある、私はそう確信しています。

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