歌手、円広志(まどか ひろし)
1978年、大ヒットとなった名曲「夢想花」=むそうばな
♪とんで とんで とんで~ のフレーズが有名となり80万枚を売り上げ。
世界歌謡祭でグランプリを受賞。
軽快なテンポの曲調、子どもから大人まで愛される曲となりました。
あれから約45年が経過、円広志は今どうしているのでしょうか?
円広志(まどか ひろし)プロフィール 本名は?出身は?妻とは20年以上別居で離婚?子どもはいるの?
◇本 名 篠原 義彦 (しのはら よしひこ)
◇生年月日 昭和28年8月21日(3人兄弟の次男) 2022年現在、69歳
◇出身地 高知県安芸郡東洋町野根 小学校2年生より大阪で育つ。現在も大阪在住。
◇出身校 追手門学院大学経済学部
◇血液型 B型
◇趣 味 メダカなどの淡水魚の捕獲・飼育/プロレス観戦(NOAHのファン)/絵を描くこと/料理/アウトドア/リバーウォッチング/ウォーキング/リゾートウォッチング
公式HPより
現在の円広志、いい雰囲気のおじいさんになっていました。
円広志、もともとは高知の出身ですが、小学校の頃に大阪へ転居、以後は大阪での活動がメインです。
奥さまは、元航空会社職員。1977年、円広志24歳で結婚。
円さんが全く売れていない頃、奥さまが円さんを養っていたのだとか。
奥さまのお写真を探しましたが見つかりませんでした。一般人なので仕方ないですね。
結婚翌年の1978年に夢想花が大ヒット、奥さまは誰よりも円さんの成功を喜んだようです。
お二人の間には子ども(娘)が一人います。
娘さんは、1979年生まれ。2022年現在、43歳。既婚でお子さんもいるようです。
娘さんが、成人すると円さん夫妻は別居。その別居生活は20年以上になるのだとか。
それぞれが自立した生き方を選択されたのでしょうね。
離婚はなさそうで、現在はまた一緒に生活されているようです。
円広志 ヤマハポプコンに出場していた。
円広志は、大学時代からアマチュアでバンド活動を行っていました。
当時、大阪市内のライブハウスでは、まだ高校生だった世良公則がアルバイトをしていたのだとか。
円広志のバンドは、セミプロとなり活動するも1978年バンド仲間の就職などでやむなく解散。
以後、ソロ活動となる。
「もう大好きな音楽ができなくなる!」そう思い、無性にさみしくなった円広志。
ギターを叩きつけるように弾いて、曲作りに没頭。
夢想花の『とんで、とんで』は、僕にとっては歌ではなく、音楽との訣別の辛さを一気に吐き出した “心の叫び”だったと、円広志は語っています。
勝負をかけてレコード会社にデモテープを送るもNG。その頃、ライヴ会場で警備のアルバイトをしていて知人のヤマハ関係者に出会い、作ったデモテープをその関係者に送ると高評価。
円広志 夢想花 「とんで」は、何回?「まわって」は、何回出てくる?
夢想花は、♪とんで とんで とんで ♪まわって まわって・・・
というフレーズが有名です。数えると、「9回とんで、4回まわる」でした。
「とんで」が9回の理由:
円広志自身の肺活量で、一息ではきだし歌えるのが9回、もやもやした気持ちのはきだしであったのが理由。
「まわって」は4回:
2小節でキリがいいからという単純理由でした。
心の叫びと作曲上の理由というなかなか意義深いものでした。
円広志 一発屋だったが、夢想花の印税600万円だった。
夢想花の大ヒット、印税で600万円もの大金を手に入れた円広志。
当時はまだ20代、奥さんの稼ぎ(月収10万円程度)の貧乏生活。
突然、転がり込んできた大金。
奥さんと外食したり旅行に行ったり、ちょうど子どもも生まれて見事に使いきったのだとか。
朝からパチンコ行ってお酒飲んでも入ってくる印税。
結局、わずか数年で印税を使いきり、人生で一番楽しい時間だったようです。
その後は、ヒット曲に恵まれず、泣かず飛ばずで、またもつつましい暮らしを続けていたのだとか。
円広志 森昌子「越冬つばめ」の作曲が大ヒット。作曲は本名で行っていた!!印税で円広志自身も越冬できた。
ちまたで「一発屋」としてささやかれていた円広志。
1983年、森昌子が歌う越冬つばめが大ヒット。本名の篠原 義彦(しのはら よしひこ)で作曲。当初、誰も円広志とは気づかず。
円広志で作曲するとどうしても「夢想花」=関西の芸人歌手、「とんでの人」という風評や先入観があると予測。
そのため誰も知らないであろう本名で作曲したそうです。
越冬つばめは、第25回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。
♪ヒュールリー ヒュルリララー というフレーズが印象的ですね。
1か月ほどで越冬つばめを作曲、作曲家としての才能も開花させました。
そしてまたも高額印税を手に入れ、円広志自身も越冬できたというオチでした。
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